井植敏いうえさとし
三洋電機 元社長・会長[日本]
1932年 2月28日 生 (満92歳)
井植 敏(いうえ さとし、1932年(昭和7年)2月28日 - )は、日本の実業家。
三洋電機元社長。
三洋電機創業者の井植歳男の長男。
人物・来歴=
兵庫県出身(東京芝生まれ)。
1956年同志社大学工学部電気学科卒業後、三洋電機入社。
1959年に東京三洋電機の設立とともに転籍し、27歳で取締役に就任する。
1961年に三洋電機の取締役となり、常務、専務を経て1985年に副社長となる。
1986年、三洋電機の石油ファンヒーターにより、一酸化炭素中毒で4人が死亡するという事件が起きた。
叔父で社長の井植薫は、自身を責め立て、遂にはノイローゼになり、株主総会の議事進行中に昏倒してしまう。
急遽、副社長の敏が議事を務め、どうにか乗り切った。
この功績もあって、同年に社長に就任した。
しかし、1992年、業績悪化の責任を取って、歳男の姪と結婚していた副社長の高野泰明に社長を譲り、会長に退いた。
高野は社長を引き受ける条件として、自分が三洋電機のリストラを断行するかわりに、敏にはグループ会社の経営に専念して欲しいと希望したという。
三洋電機本社から遠ざけられた敏は、三洋電機クレジットに肩入れした。
三洋電機クレジットは優良ノンバンクとして高い収益を上げ、1996年に大証2部に上場して以来、7期連続で最高益を更新した。
これを背景に、敏に本社の経営に復帰したいという色気が出てきた。
1998年、敏は高野に引導を渡して副会長に退かせ、自らは会 ……
井植敏さんが誕生してから、92年と267日が経過しました。(33870日)