咸豊帝
清朝第9代皇帝[清]
(道光11年6月9日生)
1831年 7月17日 生
咸豊帝(かんぽうてい)は、清の第9代皇帝(在位:1850年 - 1861年)。
諱は奕詝(えきちょ)。
廟号は文宗(ぶんそう)。
在世時の元号の咸豊を取って咸豊帝と呼ばれる。
生涯=
道光帝の第4子として生まれる。
母は鈕祜禄氏(孝全成皇后)で、惇親王奕誴・恭親王奕訢・醇親王奕譞の兄。
10歳で母を喪い、奕訢の母である博爾済吉特氏(孝静成皇后)に養育された。
年齢は皇后の実子である弟と1歳違いだったが、道光帝は第4子の奕詝の人徳と資質を評価し後継者に定めた。
即位後の道光30年12月10日(グレゴリオ暦では既に年が明けた1851年1月11日)に太平天国の乱が勃発。
咸豊8年(1858年)にはアロー戦争(第二次アヘン戦争)に敗北し、天津条約を結ばされた。
この条約により北京への使臣常駐、キリスト教布教の公認、アヘン輸入の公認などを認めさせられることになった。
これにロシアも乗じてアイグン条約を結ばされた。
咸豊10年(1860年)、英仏連合軍は更に侵略を続け、北京にまで攻め上った。
咸豊帝は粛順の言を容れ、北京を恭親王に任せて熱河へ撤退した。
恭親王は英仏連合軍がやってくると、どこかに隠れてしまった。
皇帝のいなくなった北京で、英仏は円明園の略奪を行い、財宝のなくなった円明園に放火して証拠を隠滅した。
その後に恭親王を通じて北京条約を結び、天津条約の内容に加えて天津の開港、イギリスへの九竜半島割譲などを認めさせた。
北京条 ……
咸豊帝さんが誕生してから、193年と128日が経過しました。(70621日)