水野勝成みずのかつなり
戦国武将、備後福山藩初代藩主[日本]
(永禄7年8月15日生)
(ユリウス暦) 1564年 9月30日 生
1651年 5月4日 死去享年88歳
水野 勝成(みずの かつなり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
三河国刈谷藩主、大和国郡山藩主を経て備後国福山藩初代藩主となる。
幕末の館林藩士・岡谷繁実作成の名将言行録には「倫魁不羈(りんかいふき)」(余りに凄すぎて誰にも縛りつけることはできない)と称された。
経歴=
少年期=
勝成は幼名を国松といい、若名を藤十郎といった。
『寛政重修諸家譜』では母・妙舜尼は都築吉豊の娘としているが、水野家の文献では本願寺光佐の妹となっている。
永禄7年(1564年)に三河国刈谷の生まれとされるが、父・水野忠重は当時、同国岡崎に住んでおり、記録と矛盾している。
忠重が鷲塚城主をしていた時代の子供であるから、鷲塚生まれとも考えられる。
高天神城の戦い=
初陣は天正7年(1579年)の遠江高天神城攻めで忠重に従って出陣するが、このときは武田勝頼の撤退により戦にはならなかった。
同年、徳川秀忠が誕生すると、勝成は乳兄弟とされた。
天正8年(1580年)、父の忠重が織田信長に引き抜かれ、刈谷の大名になる。
勝成は奥田城、細目城を任される。
同年の第二次高天神城の戦いに忠重と共に参加し城を攻めた。
しかし、戦いは翌年まで続き最後は城から城兵全員が討って出て大激戦になったといわれる。
このとき勝成は16歳にして首級をあげ、信長から感状を与えられる。
なお、このとき勝成は城内に祀られていた天神社より渡唐天 ……
亡くなってから、373年と199日が経ちました。(136437日)