生年月日データベース

大森運夫おおもりかずお

日本画家[日本]

1917年 9月23日

2016年 9月29日 死去老衰享年100歳

1917(大正6)年9月23日、愛知県八名郡三上村(現、豊川市三上町)に農家の長男として生まれる。1937(昭和12)年愛知県立岡崎師範学校(現、愛知教育大学)を首席で卒業し、小学校教員となる。その後、40年広島高等師範学校(現、広島大学)に進むが、翌年肺結核のため中退。帰郷して療養生活を送った後、再び郷里で教鞭をとるようになるが、50年、当時新進作家として脚光を浴びていた中村正義と出会い、その影響で日本画を描き始める。翌年中村正義、平川敏夫、星野眞吾、高畑郁子らと画塾・中日美術教室を開設。51年第15回新制作展に「校庭」が初入選、また同年第7回日展に「稲荷前」が初入選するも、以後は新制作展で入選を重ね、骨太な筆致で風景や人物を描く。58年中部日本画総合展で最高賞を受賞。61年には教員を退職、翌年神奈川県川崎市に移り住んでいた中村正義の宅地内に転居し、画業に専念。同年第26回新制作展で、東京の山谷周辺を根城にする日雇労務者や浮浪者を題材とした「ふきだまり」三連作が新作家賞を受賞。66年第1回神奈川県展で、“オッペシ”と呼ばれる漁婦を主題とした「九十九里」が大賞を受賞、その賞金でフランス、スペイン、モロッコ、スイス、イタリア、ユーゴスラビアの6カ国を巡り、ロマネスク美術に啓発されて人物表現のデフォルメを押し進める。66年第30回新制作展「九十九里浜」二連作、67年第31回「モロッコ」三連作、70年第34回展では山形県庄内地方に伝わる黒川能に取材した「灯翳」「爾宴」が新作家賞を受賞し、71年新制作協会会員となった。以後も同展に「能登神雷譜」二連作(第36回展)、「佐渡冥界の譜」(第37回展)等、土俗的な郷愁を宿した作品を発表する。75年第3回山種美術館賞展で「山の夜神楽」が大賞を受賞。74年新制作協会日本画部会員による創画会結成に参加し、以後会員として活動。土俗祭儀、東北地方の“おばこ”、人形浄瑠璃、ロマネスク美術等、そのモティーフは変遷を辿るが、一貫して人間の根底にひそむ強い生命力や祈りをテーマとし続けた。85年には当時の創画会中堅作家であった池田幹雄、上野泰郎、小野具定、小嶋悠司、滝沢具幸、毛利武彦、渡辺學とともに地の会を結成、その第1回展から最終回の第12回展(1996年)まで毎回出品する。1992(平成4)年豊橋市美術博物館で初の回顧展を開催。96年には求龍堂より『大森運夫画集』が刊行。晩年には作品を豊川市桜ヶ丘ミュージアムに寄贈し、2010年に同館にて受贈記念展が開催される。(引用元・日本美術年鑑 平成29年版)

大森運夫さんが誕生してから、107年と59日が経過しました。(39141日)
亡くなってから、8年と53日が経ちました。(2975日)
36166日間 生きました。

推定関連画像