北原稲雄きたはらいなお
国学者、歌人[日本]
(文政8年2月3日生)
1825年 3月22日 生
1881年 10月2日 死去享年57歳
北原 稲雄(きたはら いなお、文政8年2月3日(1825年3月22日)- 明治14年(1881年10月2日)は、幕末から明治前期にかけての国学者、歌人。
信濃国伊那郡座光寺村(現、長野県飯田市座光寺)の名主(庄屋)。
幼名は照吉のち信質。
通称は林右衛門、森右衛門。
号は八束穂、鏑廼舎(かぶらのや)。
生涯=
信州伊那谷の座光寺村の名主、北原民右衛門因信の次男として生まれ。
嘉永2年(1849年)、家督を継いだ。
若い頃は和歌を飯田在住の歌人岩崎長世のサークルに入って、その指導を受け、貸本屋の福住清風からも和歌を学んだ。
長世の和歌のサークルは安政5年(1858年)以降、伊那谷と美濃国中津川宿を中心に平田国学を学び、普及させる拠点となっていった。
安政6年(1859年)、稲雄は長世を通じて「篤胤没後の門人」となったが、同年中に入門した清内路村の原武右衛門、中津川の間半兵衛・馬嶋靖庵、飯田城下の奥村邦秀らはいずれも長世から和歌の指導を受けた各地の名望家であった。
平田国学に入門した人々は、さしせまる日本の危機を救うためには平田篤胤の教えを広く浸透させなければならないと考え、気吹舎出版物の購入や頒布・販売、そしてまだ上木(出版)されていない篤胤原稿の出版・刊行を目指した。
万延元年(1860年)4月に刊行された『弘仁歴運記考』は北原稲雄の出資による。
つづいて篤胤の主著『古史伝』の上木運動が始まり、これは文久2年(1862年)以降、長世が ……
北原稲雄さんが誕生してから、199年と243日が経過しました。(72928日)
亡くなってから、143年と49日が経ちました。(52280日)
20648日間 生きました。