浅井図南あさいとなん
医者、本草学者[日本]
(宝永3年11月13日生)
1706年 12月17日 生
1782年 9月11日 死去享年77歳
浅井 図南(あさい となん、宝永3年11月13日(1706年12月17日) - 天明2年8月5日(1782年9月11日))は、江戸時代中期の医者。
名は政直、後に惟寅。
通称は頼母。
幹亭、篤敬斎とも号した。
人物=
医師・浅井東軒(周迪、1672-1753)の子として生まれる。
生まれは、京都とも、長州ともいう。
幼名は冬至郎。
祖父の浅井策庵も京で名の知られた医師だった。
享保10年(1725年)、父・東幹が徳川継友に禄400石で招かれ尾張藩の藩医となって名古屋に居を移したが、図南は京都に留まって医業を行った。
画に優れ、特に墨竹画については、宮崎筠圃、山科李蹊、御園中渠とともに「平安の四竹」と称された。
後に父・東軒の死を受けて、父の跡を継ぎ尾張藩医となる。
天明2年(1782年)、77歳で没した。
以降子孫が藩医を継いだ。
浅井図南さんが誕生してから、317年と338日が経過しました。(116122日)
亡くなってから、242年と69日が経ちました。(88460日)
27662日間 生きました。