岩瀬忠震いわせただなり
幕臣、外国奉行[日本]
(文政元年11月21日生)
1818年 12月18日 生
1861年 8月16日 死去享年44歳
岩瀬 忠震(いわせ ただなり)は、江戸時代後期の幕臣、外交官である。
列強との折衝に尽力し、水野忠徳、小栗忠順と共に「幕末三俊」と顕彰された。
維新後に正五位を贈られた。
島崎藤村の『夜明け前』にも岩瀬肥後の名で登場する。
生涯=
旗本・設楽貞丈の三男として、江戸芝愛宕下西久保で生まれる。
血縁をたどると、麻田藩主青木一貫の曾孫、宇和島藩主伊達村年の玄孫であり、男系で伊達政宗の子孫にあたる。
母は林述斎(林家の大学頭)の娘で、おじに鳥居耀蔵、林復斎、従兄弟に堀利煕がいる。
天保11年(1840年)5月岩瀬忠正の婿養子となり、岩瀬家(家禄800石)の家督を継いだ。
天保14年(1843年)昌平坂学問所大試乙科に合格、成績が優秀だったため褒美を受ける。
嘉永2年(1849年)2月部屋住みより召し出されて西丸小姓番士となり(切米300俵)、同年11月徽典館学頭を命じられ(手当として30人扶持)、翌年甲府へ出張、この時阿部正弘より時服を拝領している。
1年後江戸に戻り、徽典館学頭としての功績が認められ、白銀15枚を拝領、次いで昌平坂学問所の教授となる。
嘉永7年(1854年)、老中首座・阿部正弘にその才能を見出されて目付に任じられ、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の開設や軍艦、品川の砲台の築造に尽力した。
その後も外国奉行にまで出世し、安政2年(1855年)に来航したロシアのプチャーチンと全権として交渉し日露和親条約締結に臨んだ。
安政5 ……
岩瀬忠震さんが誕生してから、205年と338日が経過しました。(75214日)
亡くなってから、163年と96日が経ちました。(59632日)
15582日間 生きました。