三枝源次郎さえぐさげんじろう
映画監督[日本]
1900年 9月8日 生
没年不詳
三枝 源次郎(さえぐさ げんじろう、1900年9月8日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。
人物・来歴=
日活向島から大将軍へ=
1900年(明治33年)9月8日、東京府豊多摩郡渋谷村、のちの東京市渋谷区渋谷3丁目8番地に当たる地に生まれる。
1921年(大正10年)3月、東京物理学校(旧制専門学校、現在の東京理科大学)を卒業し、同年5月、日活向島撮影所監督部に入社する。
細山喜代松、若山治、鈴木謙作に師事、同僚助監督の溝口健二とは連日酒杯を傾け、論じあう仲であった。
1923年(大正12年)8月10日に公開された若山治監督の『男性の意気』には、脚本家としてクレジットされている。
同年9月1日に起きた関東大震災によって同撮影所は壊滅し、現代劇部は日活京都撮影所に移転し、三枝は、そこでも脚本を書き、鈴木謙作の監督作に採用されている。
1924年(大正13年)7月4日に公開された『民族の黎明』で監督としてデビューした。
1925年(大正13年)7月12日に公開された『赫い夕陽に照されて』は、刃傷事件で降板した溝口健二に代わって、三枝が監督し、仕上げた作品である。
日活の取締役であった杜重直輔が1931年(昭和6年)ころに設立した大日本天然色映画で、翌1932年(昭和7年)、『奇跡の生還』という、当時珍しいカラー映画を監督している。
1934年(昭和9年)8月22日に公開されたトーキー『日本人なればこそ』を最後に京都を去り、東京の大都映画に移籍、ふたたびサイレント映 ……
三枝源次郎さんが誕生してから、124年と74日が経過しました。(45365日)