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アンドロニコス2世パレオロゴスAndronikos II Palaiologos

ローマ帝国皇帝[東ローマ帝国]

(ユリウス暦) 1259年 3月25日

(ユリウス暦) 1332年 2月13日 死去享年82歳
アンドロニコス2世パレオロゴス - ウィキペディアより引用

アンドロニコス2世パレオロゴス(ギリシア語:Ανδρόνικος Β' Παλαιολόγος (Andronikos II Palaiologos)、1259年3月25日 - 1332年2月13日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の第2代皇帝(在位:1282年 - 1328年)。
同王朝初代皇帝ミカエル8世パレオロゴスの長男。
生涯= 高い教養を持つ文人皇帝として学芸の振興に尽力し、後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれるビザンティン文化最後の興隆期を現出した。
また父帝の教会合同政策を改めて正教会と国家の関係を修復し、その治世の下でアトス山の修道院活動は一つの盛期を迎えた。
しかし為政者としての能力は乏しく、父ミカエル8世が再建した東ローマ帝国は彼の治世で早くも衰退に向かい始めた。
西欧側に対しては、父ミカエルの創設した海軍が衰微するのを長年にわたって放置したため、ヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国といった、当時の地中海の海洋国家との競争に打ち勝つことができなくなった。
オスマン帝国がオスマン1世の元でビチュニアのほぼ全域を征服すると、アンドロニコスはこれに対抗するため、カタルーニャの探検家ロジェ・ド・フロール(出自はドイツ人)の助力を仰いだ。
彼の指揮の元にカタルーニャ人と、アルモガバルスとして有名なアラゴン人の混成傭兵が動員され、オスマン軍を破った。
しかし今度は、ロジェがアンドロニコスにとっての脅威となったため、1305年に、アンドロニコスの長男ミカエルやその支 ……

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