浅香忠雄あさかただお
政治家[日本]
1908年 1月12日 生
1985年 5月28日 死去享年78歳
浅香 忠雄(淺香、あさか ただお、1908年(明治41年)1月12日[1] - 1985年(昭和60年)5月28日[1][2])は、昭和期の実業家、政治家。
衆議院議員(5期)。
経歴=
大阪府[1][2]堺市出身[3]。
1925年(大正14年)堀川商工専修学校を卒業した[1][2][3]。
木村屋製パン社長、浅香産業社長、朝鮮耐火煉瓦社長、大阪変圧器顧問、三洋電機顧問、大阪工業大学常任顧問などを務めた[2][3]。
大阪府会議員に選出され[1][2][3]、大阪府教育委員会委員長、大阪府立新制大学設立委員長にも在任した[2][3]。
1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に大阪府第3区から民主自由党公認で立候補して初当選[1][2][4]。
以後、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙まで再選され[5]、衆議院議員に連続5期在任した[1][2][3]。
この間、第5次吉田内閣厚生政務次官、衆議院逓信委員長、自由党総務、同政調会財政金融部長、同政調会副会長、自由民主党全国組織委員会副会長、同政調会通信部長などを務めた[1][2][3]。
その後、第29回総選挙に立候補したが次点で落選した[6]。
1978年(昭和53年)4月の春の叙勲で勲二等に叙され、瑞宝章を受章する[7][8]。
また、新京阪交通取締役、仁和寺ゴルフクラブ取締役に就任した[2]。
1985年(昭和60年)5月28日、死去した。
77歳没。
同月31日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付をもって従四位に叙された[9]。
浅香忠雄さんが誕生してから、117年と167日が経過しました。(42901日)
亡くなってから、40年と30日が経ちました。(14640日)
28261日間 生きました。