冨田溪仙とみたけいせん
日本画家[日本]
1879年 12月9日 生
1936年 7月6日 死去享年58歳
冨田 溪仙(とみた けいせん、1879年12月9日 - 1936年7月6日)は、明治から昭和初期に活躍した日本画家。
初め狩野派、四条派に学んだが、それに飽きたらず、仏画、禅画、南画、更には西洋の表現主義を取り入れ、デフォルメの効いた自在で奔放な作風を開いた。
略歴=
1921年のポール・クローデルと冨田
福岡県博多に生まれる。
本名は鎮五郎(しげごろう)。
字は隆鎮。
別号に雪仙、渓山人など。
冨田家はかつて福岡藩の御用を務め、渓仙が生まれた頃は麹屋町(現在の博多区川端)で素麺製造業を営んでいた。
福岡藩御用絵師だった衣笠守正(探谷)に狩野派を学んだ後、京都に出て四条派の都路華香に師事。
のち仙厓義梵、富岡鉄斎に傾倒。
各地を旅し幅広い研鑽を積む。
横山大観にみとめられ、1915年(大正4年)日本美術院同人。
1935年(昭和10年)帝国美術院の改革に伴い会員となる。
駐日フランス大使であった詩人のポール・クローデルや俳人河東碧梧桐との交遊も知られている。
また、横山大観とも昵懇であり、1936年(昭和11年)に入り、横山が帝国美術院改革に異を唱えると一緒に美術院会員を辞した。
一方で、京都の画壇関係者とは全く交友は無く、門弟も居なかったため孤高の偉才と評されていた。
1936年(昭和11年)7月6日、京都府右京区の自宅で脳溢血で倒れ、そのまま死去。
遺族は夫人のみで翌7日には密葬が、同月11日には大雲院で告別式が行われた。
墓所は ……
冨田溪仙さんが誕生してから、144年と347日が経過しました。(52943日)
亡くなってから、88年と138日が経ちました。(32280日)
20663日間 生きました。