生年月日データベース

道元どうげん

、曹洞宗開祖[日本]

(正治2年1月2日生)

(ユリウス暦) 1200年 1月19日

(ユリウス暦) 1253年 9月22日 死去享年54歳
道元の名言
生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり。例えば冬と春のごとし。冬の春となると思わず、春の夏となるといわぬなり。人の悟をうる、水に月のやどるがごとし。
道元 - ウィキペディアより引用

道元(どうげん、正治2年1月2日(1200年1月19日)- 建長5年8月28日(1253年9月22日))は、鎌倉時代初期の禅僧。
日本における曹洞宗の開祖。
晩年に希玄という異称も用いた。
同宗旨では高祖と尊称される。
諡号は、仏性伝燈国師、承陽大師。
一般には道元禅師と呼ばれる。
徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。
『正法眼蔵』は、和辻哲郎、ハイデッガーなど西洋哲学の研究家からも注目を集めた。
生い立ち 道元は、正治2年(1200年)、京都の久我家に生まれた。
両親が誰であるかについては諸説ある。
一時定説化した仏教学者・大久保道舟の説によれば、父は内大臣・源通親(久我通親または土御門通親とも称される)であり、母は太政大臣・松殿基房(藤原基房)の娘である藤原伊子であって、京都・木幡の松殿山荘で生まれたとされていた。

映像作品

関連書籍

音楽作品

鎌倉時代の仏僧,曹洞宗の開祖.勅諡は承陽大師.希玄と号す.(1200年-1253年) 「只管打坐」を唱えた。 内大臣久我通親の子である(異説あり).幼くして比叡山に上る.栄西について禅を学ぶ. 1223年:明全とともに入宋、各地で仏教の修行をしたが、よい僧侶が中々おらず、 「大宋国の僧の頭には仏教はない」と後に語っている。 天童如浄の元で座禅をしているとき、遂に悟りを開き、印可を受ける. 1228年:帰国. 建仁寺に住み,著作と学問に専心し深草興聖寺を開創するが、説法を延暦寺の僧侶にとがめられ、 寺を破壊されたという(異説あり)。 1243年:貴族・権勢に近づくことを避け、説法に感激した波多野義重の領地・越前国志比荘に移る. そこで大仏寺(後永平寺と改める)を開創.のち波多野義重と北条時頼に請われて鎌倉に入り説法などを行うが、鎌倉幕府から寄進の申し出があった寺院建立は固辞.また越前に戻る. "座禅以外に悟る方法はない"(『弁道話』)と唱える.理論よりも実践を重んじて見性を中心とした. その説法・言行は《正法眼蔵》に記録された. なお、道元本人は曹洞宗などという宗派はないといい、「私がやっているのが釈迦以来の本当の仏教であり、宗派などというものはない」と宗派そのものを否定しているが、後になって曹洞宗の開祖とされた。諡も明治時代になってから 受けたものであり、本人は政府に極力近づかず越前の山の中、永平寺で弟子の育成に努めた。これは師匠の天童如浄から「権力に近づかずに山の中で仏教を守れ」と教えられたためだという。 一説には、空海と並ん …… (引用元 Hatena Keyword)