生年月日データベース

足利義視あしかがよしみ

足利将軍家一門[日本]

(永享11年閏1月18日生)

(ユリウス暦) 1439年 3月3日

(ユリウス暦) 1491年 2月15日 死去享年53歳
足利義視 - ウィキペディアより引用

足利 義視(あしかが よしみ)は、室町時代中期から後期にかけての武将。
足利将軍家の一族で、応仁の乱における西軍(西幕府)では、事実上の将軍でもあった。
室町幕府の6代将軍・足利義教の子で、異母兄に7代将軍の義勝と8代将軍の足利義政、堀越公方の足利政知(実際は次兄にあたる)がいる。
子に10代将軍の足利義稙(初め義材・義尹)などがいる。
概要= 足利将軍家の家督継承者以外の男子であったため、出家して僧籍に入り、天台宗浄土寺門跡となった。
その後、嗣子に恵まれない兄の義政に請われて還俗し、義視と名乗り、その後継となった。
だが、義政と日野富子の間に実子の義尚が生まれると、義視と義政の関係は微妙なものとなった。
そして、畠山氏や斯波氏の家督相続問題などによる応仁の乱が発生し、諸大名が細川勝元派の東軍と山名宗全派の西軍に二分されると、義視は東軍の総大将となった。
その過程で義政との関係が悪化すると、義視は西軍に走り、西軍諸将によって盟主として奉じられ、事実上の将軍として扱われた(西幕府)。
乱後、義視は美濃に亡命し、この地で約10年間雌伏した。
甥の義尚と兄の義政の死後、義視は嫡子の義材(義稙)を10代将軍に擁立して、自らは大御所として後見し、幕政に関与した。
だが、その後すぐ病身になり、兄の死から1年後に死去した。
生涯= 誕生と出家= 永享11年(1439年)閏1月18日、6代将軍・足利義教の十男(庶子) ……

推定関連画像