生年月日データベース

最上義光もがみよしあき

戦国大名[日本]

(天文15年1月1日生)

(ユリウス暦) 1546年 2月1日

1614年 2月26日 死去享年69歳
最上義光 - ウィキペディアより引用

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戦国時代の武将。羽州探題・斯波兼頼の子孫で、奥州大崎氏の分家筋にあたる。 最上義守の嫡男で伊達政宗の伯父(実妹の義姫が政宗の母)。山形城(山形市)に生まれる。 父・義守と対立し、これを隠居させると弟・義時と家督を争って殺害。 天童氏・大江氏・白鳥氏などは反義光包囲網を形成するが ことごとく滅ぼすか従属させ、山形24万石を確固たるものとした。 天正16年(1588)の伊達・大崎合戦においては 本家にあたる大崎氏に援軍を派遣、伊達政宗を破った。 だが、その際に妹で政宗の母である義姫(保春院)が仲裁に入り 両軍は和睦。それまで断続的に衝突していた伊達氏と最上氏は けん制し合いながらも同じ陣営に属するようになる。 関ヶ原の合戦では東軍に属し、上杉軍と激突 山形城の近くまで攻め寄せられるが、長谷堂合戦にて撃退 その功により57万石の大大名となる。 また、領内の租税を減免し、北楯利長をして治水事業を行う*1など 内政に力を入れたことでも知られている。 1614年没、光禅寺(山形市)に葬られた。 家臣団には氏家守棟といった譜代の家臣のほか鮭延秀綱、延沢満延、楯岡満茂など主に 国人領主を厚遇した。特に志村光安は長谷堂城攻防戦では地の利を生かして 上杉軍を悩ませた名将。 一方で、家臣団を優遇したことは、それぞれの発言力を強めるだけでなく 派閥を形成することとなり、孫の義俊の代になってお家騒動が発生。 改易の憂き目に遭ってしまった。 なお、四男の山野辺義忠は最上氏改易後、水戸徳川家に仕え家老となった。 *1:現在でも「大学 …… (引用元 Hatena Keyword)

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