生年月日データベース

最上家親もがみいえちか

出羽山形藩主[日本]

(天正10年生)

1582年

1617年 4月11日 死去享年36歳

最上 家親(もがみ いえちか)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・外様大名。
出羽山形藩の第2代藩主。
最上氏の第12代当主。
生涯 天正10年(1582年)、最上氏の第11代当主・最上義光の次男として生まれる。
伊達政宗は従兄にあたる。
文禄3年(1594年)から徳川家康の近侍として仕え、13歳で元服する。
初めは父より一字を与えられて義親(よしちか)と名乗っていたが、家康の偏諱を受けて家親と改名した。
文禄4年(1595年)からは家康の三男・秀忠の家臣として仕えた。
これは父・義光が豊臣秀吉の死後、徳川家康が天下人になる事を予見して、早くから家親を徳川氏に仕えさせたのである。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠に従って、西軍の真田昌幸が守る上田城攻めに参加した。
遅くとも慶長7年(1602年)以降、兄義康の所領であった旧寒河江氏所領を受け継いでいる。
しかし、多忙な家親は寒河江城で家臣との面会はなかなか行えなかったようである。
慶長8年(1603年)兄の義康が不慮の死を遂げ、慶長19年(1614年)に父が病死すると、その跡を継いで最上氏第12代当主、ならびに山形藩の第2代藩主となった。

江戸時代初期の武将。出羽山形の大名・最上義光の次男。 始め義親と名乗ったが、徳川家康の近習を務めていたことから 家親と改名し、従五位下駿河守に叙任された。 慶長10年(1605)侍従に任ぜられ、大坂の陣では3000の兵を率いて出陣するなど 将来を期待されたが、元和3年(1617)山形城内で急死した。 死亡説には諸説あるが、子の義俊が幼少であったため、家臣団の対立を招き 改易となった。 (引用元 Hatena Keyword)

連想語句
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  • 死因
  • 藩主
  • 関連
  • よしちか
  • 一字
  • 三男
  • 初め
  • 従兄
  • 徳川秀忠
  • 改名
  • 次男
  • 秀忠
  • 義親
  • 近侍