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平維盛たいらのこれもり

武将[日本]

(保元3年生)

1158年

(ユリウス暦) 1184年 5月10日 死去入水享年27歳
平維盛の辞世
生まれては つひに死ぬてふ 事のみぞ 定めなき世に 定めありける
平維盛 - ウィキペディアより引用

平 維盛(たいら の これもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。
平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男。
平氏一門の嫡流であり、美貌の貴公子として宮廷にある時には光源氏の再来と称された。
治承・寿永の乱において大将軍として出陣するが、富士川の戦い・倶利伽羅峠の戦いの二大決戦で壊滅的な敗北を喫する。
父の早世もあって一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水自殺した。
生涯 立嫡 保元3年(1158年)、平氏棟梁である平清盛の嫡男・重盛の長男として生まれる。
母は官女とされるが、出自など詳細は不明。
父・重盛は20歳、祖父・清盛と共に保元の乱・平治の乱を戦っていた頃である。
乱の勝者となった清盛は権勢をふるい、重盛はその嫡男として順調に出世を重ねた。
嘉応2年(1170年)7月に異母弟の平資盛が起こした殿下乗合事件を記した九条兼実の日記『玉葉』には、資盛を「嫡男」と記しており、更に維盛の従五位下叙位が10歳の時の仁安2年(1167年)であるのに対し、年下の資盛の従五位下叙位がその前年である事から、維盛は元々重盛の庶長子で後に嫡男として立てられたと見られている。

■ 関連書籍

たいらのこれもり 平安時代末期の武将。重盛の嫡子。小松中将と称される。平家一門の嫡流として出世。治承4(1180)年源頼朝挙兵の際,追討大将軍として東国に発向。富士川の戦いでは,夜,水鳥の羽音に驚いて戦わずに逃げ帰った。翌年3月尾張墨俣の戦いで源氏を撃破,その功により右近衛権中将,従三位となった。寿永1(82)年木曾義仲追討のため北国へ発向。倶利伽羅(くりから)峠の戦いで大敗(→礪波山〈となみやま〉の戦い)。義仲が上京し平家一門が西国に没落したとき,一時は都落ちしたらしいが,その後の消息は不明。物語類では,屋島で平家の陣を抜け出し(→屋島の戦い),高野山で出家,熊野灘へ舟を出して入水して果てたという。 (引用元 コトバンク)

「平維盛」と関連する人物

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