生年月日データベース

毛利輝元もうりてるもと

戦国大名[日本]

(天文22年1月22日生)

(ユリウス暦) 1553年 2月4日

1625年 6月2日 死去享年73歳
毛利輝元 - ウィキペディアより引用

毛利 輝元(もうり てるもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。
豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として擁立された。
長州藩の藩祖(輝元を初代藩主としていないのは、関ヶ原の戦い後の論功により秀就を初代として数えているため。
後述)。
生涯 家督相続 天文22年(1553年)1月22日、毛利隆元の嫡男として安芸国(現在の広島県)に生まれる。
幼名は幸鶴丸。
永禄6年(1563年)、11歳の時に父・隆元が急死したため、祖父・毛利元就が実権を掌握し、政治・軍事を執行した。
永禄8年(1565年)、13代将軍・足利義輝より「輝」の一字を許され元服し、輝元と名乗り、実質的な当主となるが、元就が死没するまで当主権限を元就が掌握する二頭政治体制が続くことになる。
同年の月山富田城の戦いで初陣を飾る。
元亀2年(1571年)、元就が死去すると、毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受け、親政を開始する。
天正2年(1574年)には15代将軍・足利義昭からの推挙を得て、朝廷から右馬頭に叙任され、室町幕府の相伴衆ともなった。

■ 関連書籍

戦国大名。毛利元就の孫。 父である毛利隆元の急死にともない、毛利家を継ぐ。 尼子家残党の蜂起や宇喜多直家との争いを経て織田家と敵対関係に入るが、本能寺の変により急遽織田側の重臣・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と講和。以後秀吉軍の傘下となり、後に五大老の一人となる。 関ヶ原の合戦当時では甥の毛利秀元に毛利軍の指揮を任せ、自身は大坂城に居た。しかし、秀元と吉川広家との政治的対立により関ヶ原では毛利軍は身動きが取れず。その結果、萩に転封され、領土も周防・長門の2ヶ国に大幅削減された*1。 大坂の陣では徳川方に味方せざるを得なくなったが、家臣・内藤元盛に軍資金と兵糧米を引き出物と称して豊臣秀頼に送らせたという*2。 *1:これが長州藩となった *2:元盛は佐野道可と変名して大坂入城、後に戦死する (引用元 Hatena Keyword)

連想語句
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