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北条時頼ほうじょうときより

武将、鎌倉幕府第5代執権[日本]

(嘉禄3年5月14日生)

(ユリウス暦) 1227年 6月29日

北条時頼 - ウィキペディアより引用

北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。
北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。
8代執権北条時宗、北条宗政、北条宗頼らの父。
通称は五郎、五郎兵衛尉、武衛、左近大夫将監、左親衛、相州、また出家後は最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれた。
執権になるまで 若くして実父時氏と死別したため、祖父・北条泰時に養育される。
幼い頃から聡明で、祖父・泰時にもその才能を高く評価されていた。
1241年11月、12歳の時、三浦一族と小山一族が乱闘を起こし、兄・経時は三浦氏を擁護したが、時頼はどちらに荷担することもなく静観し、経時は祖父・泰時から行動の軽率さ、不公平を叱責され、逆に静観した時頼は思慮深さを称賛されて、泰時から褒美を貰ったというエピソードが『吾妻鏡』に収録されている。

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ほうじょうときより [生]安貞1(1227).5.14.鎌倉[没]弘長3(1263).11.22.鎌倉鎌倉幕府の5代執権(在職1246~56)。時氏の次男で泰時の孫にあたる。母は安達景盛の娘(→松下禅尼)。幼名は戒寿。相模守,正五位下。寛元4(46)年兄経時の病気隠退のあとを受け執権に就任。その直後,同族名越光時らの陰謀を押えて一味を追放し,翌宝治1(47)年には光時と意を通じた三浦一族を挑発してこれを滅ぼした(→宝治合戦)。さらに建長4(52)年将軍藤原頼嗣を廃して宗尊親王を迎えるなど,北条氏の権力確立に努めるとともに,建長1(49)年引付を設けて公正な政治を行うなど,幕政を刷新し,祖父泰時とともに武家政治の理想的指導者と考えられた。康元1(56)年出家し,法名を覚了房道崇といったが,出家後も幕政に参与した。また深く禅を信じ,建長寺を創建して蘭渓道隆を迎え開山とした。なお出家後,諸国を遍歴して民情を視察したという話(『増鏡』や『太平記』に記されている)が伝わっているが,確証はない。なお,この話は,謡曲『鉢木』によって人々の間に広められた。 (引用元 コトバンク)

連想語句
  • 執権
  • 出典
  • 偏諱
  • 北条宗政
  • 北条宗頼
  • 北条時宗
  • 北条時氏
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  • 北条経時
  • 子女
  • 時代
  • 晩年
  • 最明寺
  • 最期
  • 注釈
  • 評価
  • 関連
  • 五郎
  • 五郎兵衛
  • 入道
  • 出家
  • 大夫
  • 将監
  • 左近
  • 次男
  • 武衛
  • 相州
  • 親衛
  • 通称