生年月日データベース

足利義澄あしかがよしずみ

室町幕府第11代将軍[日本]

(文明12年12月15日生)

(ユリウス暦) 1481年 1月15日

足利義澄 - ウィキペディアより引用

足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府の第11代将軍(在任:明応3年12月27日(1495年1月23日) - 永正5年4月16日(1508年5月15日))。
父は堀越公方・足利政知(8代将軍・足利義政の兄)。
母は武者小路隆光の娘・円満院。
正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧・永俊の娘)。
継室は武衛娘。
はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗後は義遐(よしとお)、義高(よしたか)、義澄と名乗った。
概要= 明応2年(1493年)、従兄の10代将軍・足利義稙(義材)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。
その後、義澄は将軍職の奪還を目指す前将軍の義稙と争い、政元とも対立するが、自身の政権を保ち続けた。
また、各地の諸大名と連絡を取り、自身の勢力維持に努めた。
しかし、永正5年(1508年)に政元が殺害されると、義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、義澄は近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。
生涯= 幼少期= 文明12年(1481年)12月15日、堀越公方・足利政知の次男として、伊豆で誕生した。
母は武者小路隆光の娘・円満院。
当時、政知の長男で異母兄の茶々丸がおり、堀越公方の後継者とされていた。
そのため、公方家を継承することはできなかった。
だが、茶々丸はのちに廃嫡され、三男の潤童子が後継者となっている。
文明15年(1483年)3月、天龍寺香厳院主の等賢同山が死去した。< ……