生年月日データベース

有馬新七ありましんしち

薩摩藩士[日本]

(「寺田屋事件」で討死、文政8年11月4日生)

1825年 12月13日

1862年 5月21日 死去討死享年38歳
有馬新七の最期の言葉
オイごと刺せ、オイごと刺せ
有馬新七 - ウィキペディアより引用

有馬新七(ありま しんしち、文政8年11月4日(1825年12月13日) - 文久2年4月23日(1862年5月21日))は、日本の武士(薩摩藩士)、学者。
位階勲等は贈従四位。
諱は正義。
号は武麿、植鈴子。
真影流(直心影流)と崎門学派を学び文武両道の俊傑とうたわれた。
憂国の詩文は孝明天皇の乙夜の覧に供されたとされる。
薩摩藩伊集院郷の郷士・坂木四郎兵衛の子として薩摩国日置郡伊集院郷古城村(現在の日置市伊集院町古城)で生まれるが、父が城下士の有馬家の養子となったため、新七もそのまま城下士となり、鹿児島城下の加治屋町に移住した。
同じく薩摩藩伊集院郷の郷士坂木六郎は叔父にあたり、達人として有名であった六郎から幼少期から神影流を伝授された。
天保9年(1838年)、十四歳の元服の頃より、『 靖献遺言 』 を 研究し、崎門学派の学を修める。
天保14年(1843年)より江戸で学ぶ。
山崎闇斎派の儒学者山口管山の門下。
安政4年(1857年)には薩摩藩邸学問所教授に就任。
文久元年(1861年)造士館訓導師に昇進。
尊皇攘夷派の志士達と多く交流して水戸藩とともに井伊直弼暗殺(桜田門外の変)を謀ったが、自藩の同意を得られなかったため手を退き、結果的に水戸藩を裏切る形となった。

■ 関連書籍

ありましんしち [生]文政8(1825).11.4.薩摩[没]文久2(1862).4.23.伏見江戸時代末期の薩摩藩士。尊攘派の志士。初め郷士であったが,文政10(1827)年有馬氏を継ぎ,安政3(1856)年上洛して梅田雲浜らと交わり,日米修好通商条約(→安政五ヵ国条約)調印や将軍継嗣問題に関しては,井伊直弼の独断的処置に反対。文久2(1862)年島津久光の上洛に際して田中河内介らと挙兵を策したが,鎮圧され,伏見寺田屋で斬死(→寺田屋騒動)。 (引用元 コトバンク)

連想語句
  • 薩摩藩
  • 伊集院
  • 郷士
  • 六郎
  • 坂木
  • 小城
  • 伊集院町
  • 位階
  • 加治屋町
  • 勲等
  • 城下
  • 天保
  • 天皇
  • 孝明
  • 学派
  • 学者
  • 日本
  • 日置市
  • 日置郡
  • 有馬
  • 武士
  • 直心影流
  • 薩摩
  • 乙夜
  • 伝授
  • 俊傑
  • 剣術
  • 叔父
  • 四郎兵衛
  • 幼少期
  • 憂国
  • 文武両道
  • 新七
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  • 正直
  • 正義
  • 武麿
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  • 詩文
  • 贈位
  • 達人
  • 鈴子
  • 養子
  • 鹿児島城
  • 鹿児島市