生年月日データベース

徳川秀忠とくがわひでただ

江戸幕府第2代将軍[日本]

(天正7年4月7日生)

(ユリウス暦) 1579年 5月2日

1632年 3月14日 死去享年54歳
徳川秀忠 - ウィキペディアより引用

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。
江戸幕府の第2代征夷大将軍。
生涯 出生から後継者争い 徳川家康の三男として遠江国浜松に誕生する。
母は側室の西郷局。
母の実家・西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には三河守護代を務めたこともある名家であり、当時も三河国の有力な国人であった。
乳母・大姥局によって養育される。
同母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる。
長兄・信康は秀忠の生まれた年に切腹している。
次兄・秀康は豊臣秀吉に養子として出され、のちに結城氏を継いだので、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。
天正18年(1590年)、小田原征伐に際して実質的な人質として上洛して元服、秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗る。
織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封されたことにより、離縁となる。
秀吉から、豊臣姓を与えられる。
その後、中納言に任官し、「江戸中納言」と呼ばれる。
文禄4年(1595年)には秀吉の養女・江と再婚する。

■ 映像作品

■ 関連書籍

江戸幕府,第2代将軍 徳川家康の三男。 兄の松平信康・結城秀康や弟の忠吉と比べ戦下手であったと伝えられ、関が原の戦いでは30000の軍勢を引き連れながら、真田氏が篭る兵力2000の上田城を攻略できず、本戦に参加できず、大阪の陣では早く戦場に着くことに執心し、強行軍で兵を移動させたため、兵がことごとく疲弊し、家康に叱責されている。 (引用元 Hatena Keyword)

連想語句
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